気難しさ

愛せ!

永遠少女

熱い寒いなどと、もう無粋な話題かもしれませんね。熱いのも寒いのももはや当たり前、その日の気温がどうなっているのか、そんな毎日を過ごしているよう気がします。とはいえだいたい服装はいつも同じな気もします。寒い熱い。

 

出会いの数だけ別れがある。月並みなことを書いてみました。3月になるとそういったことを考えます。

 

個人的には、別れよりも出会いの方が好きで、新しい刺激を気付かぬうちに求めているのでしょうか、寂しい話題より楽しい話題の方が好きなんでしょうか、レミオロメンの3月9日は割と好きです。

 

お別れに際しては、たくさんプレゼントを設けたり、言葉をあげてみたり、そんな機会があるのに、出会に関しては、そんな仰々しくしないというか、これは出会いの時点では関係値が作られていないことによるものではあるというものの、何かこうもったいない気がして、新しい出会いこそ派手に祝いたい気がして、伊藤忠みたいな、あれはやりすぎな気がして、歓迎会や懇親会みたいな出会いの段階におけるお祝いもあり、他方で、どちらが大事にされていると言いたいつもりはあまりありませんが、ネガティブなもの、別れという意味では、なくなるものというか、増えることよりも減ること、明るいことよりも暗いこと、世の中そういった、極端に言えば、生まれることより死ぬことのほうが敏感だと思っている風回りを感じます。

 

あくまで命名するとしたら、「後ろ向きなこと」が強い力を持っているのは、わざわざダースベイダーを引き合いに出すまでもなく、子どもが言葉を言い出すことに早いのは、いや、だの、だめ、だの、そういった後ろ向きなことであることからなのです。

 

すなわち、赤子が泣くのは不快という感情からであり、まだ他人すらもあまり認識していない段階から、人間は不快という感情に支配されており、そこから行動が派生されていると、言うことができます。

 

以上のことから先ほど述べた世間のせせこましさは、赤子の段階から変わっていないという意味では幼稚ともいえますが、付け加えるならば、不快だとか後ろ向きなことというのは、それだけ影響力を持つわけで、気をつけなければ、ダークサイドに落ちてしまうということも、忘れてはなりません。

 

後ろ向きなことが一瞬で広がり、心地よいものにするものが全然広まらないのは、大人同士が、全く褒めたり認めたりしないことを見れば当然わかるように、当たり前という閾値はいつのまにかとんでもなく高くなっており、常識という枠組みの中で、おぼれてしまう感覚を覚えます。

 

高齢者の再婚よりも、子どもの事故死の方が大きく取り扱われます。大学生が留学して立派な大学を卒業したことよりも、大人がやった虐待が話題になります。

 

後ろ向きなことに、どれだけ自覚的でいられるでしょうか。

 

こんばんは。また来月とかに出会いましょう。